清国海軍 北洋水師 戦艦 定遠
戦艦定遠は鎮遠と共にドイツ、シュテッティンのフルカン造船所で建設された、清国海軍の主力艦である。
契約後の1883年には艤装が終了し回航を残すのみとなっていたが、清仏戦争の影響でドイツが中立を保ったため、戦争終結後の1885年10月に就役した。

常備排水量 7,144t
全長 94.5m 全幅 18.4m 喫水 5.94m
最大速度 14.5ノット 航続距離 4,500海里(10ノット時)、石炭1,000t 乗員 363名
兵装
305mm連装砲 2基4門 150mm砲 2門 57mm速射砲 2門 47mm速射砲 2門 37mm砲 8門
14インチ水上魚雷発射管 3門
装甲 水線355mm、甲板76mm、砲塔22mm、バーベット305mm
艦載艇 魚雷艇 3隻
定遠號一等鐵甲艦(HICMS TING YUEN),
同型艦鎮遠。
コ國伏爾鏘造船廠建造(Stettiner Maschinenbau AG Vulcan)
1885年11月8日服役,
標準排水量7220噸;滿載排水量7670噸,長94.5米;ェ18米;吃水6米,航速14.5海裡。
主要武備:Krupp12英寸炮4門;Krupp5.9英寸炮2門。
參加日清戰爭?海海戰;威海衛保衛戰。
就役後は清国北洋水師の旗艦を務め、1886年には示威を兼ねて朝鮮、ロシア、日本を歴訪した。日本訪問の際には、その強大さと船員の乱行(長崎事件)から日本社会にとって大きな脅威であった。
日清戦争が勃発すると、黄海海戦(1894年(明治27年)9月17日)に参加したが、主砲による砲撃中、艦橋が崩壊、司令官丁汝昌も負傷し指揮能力を失った。
その後、159発の命中弾を受けるが、その強固な装甲により死者17人負傷者38人を出したのみで作戦能力は健在であった。
逆に定遠の305mm砲の直撃を受けた日本海軍旗艦「松島」は100名を超える犠牲者を出してしまった。
黄海海戦の後は威海衛で防備に当たっていたが、1895年2月5日水雷艇の夜襲により雷撃を受けて擱座。
なおも砲台として戦闘を継続したものの9日には陸上からの攻撃を受け損傷した。翌10日、日本軍による鹵獲を避けるために自沈。艦長の劉歩蟾も自決を遂げた。

現在、威海港で復元艦が展示されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
製作・丁提督
inserted by FC2 system