南極観測船 宗谷


宗谷(そうや、船番号: PL107)は、日本の砕氷船である。
日本海軍では特務艦、海上保安庁では巡視船として服務した。日本における初代南極観測船になり、現存する数少ない旧帝国海軍艦艇である。現在でも船籍を有しており、船舶法の適用対象で、必要であれば舫を解いて航行できる。船名は北海道北部の宗谷岬と樺太の間にある宗谷海峡にちなんで名づけられた。

1936年(昭和11年)9月18日、川南工業株式会社香焼島造船所はソビエト連邦通商代表部より、耐氷型貨物船3隻の発注を受けた。これはソ連から北満鉄路を買収した契約の一部であった。12月7日 、耐氷型貨物船第107番船として川南工業株式会社香焼島造船所(長崎県)にて起工。1938年(昭和13年)2月16日、川南工業社長の長女 川南幸子の手によってソ連船ボロチャエベツ(Volochaevets)として進水。
1940年(昭和15年)2月20日、「地領丸」は正規の軍艦籍に入籍され、海軍艦政本部により宗谷と改名された。
海軍は老朽化した砕氷艦「大泊」の不足を補う役目を本艦に期待し、千島・樺太など北洋水域の後方補給・物資輸送および同海域強行測量艦として運用するつもりだった。
1945年(昭和20年)6月26日、宗谷は第126船団と共に船越湾大釜崎沖を航行中、米潜水艦「パーチェ」からの雷撃で神津丸と永観丸が被雷沈没。宗谷は爆雷で反撃し、パーチェに損害を与えて撃退した。
8月2日、横須賀でドック入りしている時、戦艦長門、病院船氷川丸と共に空襲を受ける。敵機が投下したガソリンタンク(増槽)が宗谷の機関室に飛び込んできたが、ボイラーに火を入れていなかったため爆発しなかった。終戦時は北海道・室蘭港に所在。
終戦後、主に小樽-樺太間を往復し引揚者を次々と本土へと運んだ。

その後、オホーツク海配属の砕氷能力を持つ灯台補給船を必要としていた海上保安庁は、当初砕氷艦「大泊」を引き継ぐ予定であったものの、予想以上に老朽化が進んでいたことから宗谷に変更される。そもそも日本海軍が宗谷を購入したのは、大泊の能力不足を補い、新鋭砕氷艦竣工までのつなぎをするためだった。

南極観測船
1956年(昭和31年)11月8日 日本は国際地球観測年に伴い南極観測を行うこととなり、南極観測船が必要となった。国鉄の宗谷丸などの候補が選定され、砕氷能力や船体のキャパシティは宗谷丸のほうが勝っていたが、改造予算の問題や耐氷構造、船運の強さ(魚雷を被弾するも不発弾で沈没を逃れた等)を買われ、宗谷が南極観測船に選定される。大幅な船体補強と耐氷能力の向上を主眼とした大改装(設計者:牧野茂/戦艦大和の設計者のひとり)を日本鋼管浅野船渠で受けた。

初代南極観測船として、東京水産大学(現東京海洋大学)の海鷹丸を随伴船に従え南極に向け出港。1957年(昭和32年)1月29日 南緯69度00分22秒・東経39度35分24秒オングル島プリンスハラルド海岸に第1次南極地域観測隊が昭和基地を開設、宗谷がプリンスハラルドに接岸の間、「プリンスハラルド宗谷船内郵便局」が船内に置かれた[22]。帰路に厚い氷に閉じ込められたが、当時最新鋭艦だったソ連の砕氷艦「オビ」の救援により辛くも脱出に成功。砕氷して進む「オビ」号とは、後ろをついて進む宗谷が離されないように注意しなければならないほどの性能差であったという。
その後も宗谷は1958年(昭和33年)にアメリカの砕氷艦「バートン・アイランド」号、1960年(昭和35年)に「オビ」号の救援を再び受けている。宗谷はその後派遣回数と同じ回数の修理・改装を繰り返し、通算6回の南極観測任務を遂行した。

1962年(昭和37年) 南極観測任務を後継の南極観測船「ふじ」に譲り、再び通常任務に復帰。北海道に配備される。
1970年(昭和45年)3月 19隻の漁船が吹雪と流氷のために遭難し、宗谷が救出に向かう。悪天候の中、無事救出成功。


1978年(昭和53年)10月2日 退役。生涯で通算1000名以上の命を救った。代替船としてヘリコプター搭載型巡視船「そうや」(船番号:PLH01、現役)が建造された。

wikipediaより

樺太犬 タロとジロ
樺太犬 タロとジロ

タロとジロは日本による初期の南極地域観測隊に同行した樺太犬の兄弟である。
南極に取り残されながら共に生存し、1年後に救出されたことで有名になる。
1955年(昭和30年)10月、稚内市にて風連のクマと、クロの子として生まれ、タロ・ジロ・サブロの3兄弟だった。この名前は白瀬矗の南極探検の際、犬ぞりの先導犬として活躍した樺太犬、タロとジロ(タロウとジロウとも)にちなむ。
1956年(昭和31年)11月、総勢53名の第1次南極観測隊隊員がタロ、ジロを含む22頭の樺太犬と共に東京湾より南極観測船「宗谷」で南極へ出発。宗谷には暑さに弱い樺太犬たちのために、赤道越えのための冷房室が特別に用意された。
昭和基地に到着すると、病気などでそのまま帰国する3頭を除いた19頭の犬たちは、1957年の第1次越冬隊において犬ぞり引きなどに使役された。越冬中に2頭が病死、1頭が行方不明となった。また雌のシロ子はジロなどとの間に8頭の子を産んだ。

1958年(昭和33年)2月、宗谷が南極付近に到着した。昭和基地にいる第1次隊員と入れ替わって越冬するため、宗谷は第2次越冬隊を乗せていた。しかし、天候の悪化から宗谷は昭和基地には到着できなかった。昭和基地から帰還する第1次隊員の人間たちでさえ小型雪上機でかろうじて宗谷に帰還する有様であり、15頭の犬は犬ぞりに首輪で昭和基地付近につながれたままにされた。その後もぎりぎりまで天候の回復を待ったものの、宗谷自体が遭難する危険性も出てくるに至り、第2次越冬隊の派遣は断念された。それとともに15頭の犬の救出も見送られ、残された犬達の生存は絶望視された。

ところが、1959年(昭和34年)1月14日、第3次越冬隊のヘリコプターにより、上空から昭和基地に2頭の犬が生存していることが確認される。着陸すると駆けてきて操縦士に寄ってきたが、大きく成長していて、個体の判別がつかなかった。急遽、第1次越冬隊で犬係だった北村が次の機で基地に向かうことになった。犬達は北村に対しても警戒していたが、頭をなでながら次々と犬の名を呼び掛けると、1頭は「タロ」との発声に反応して尻尾を振った。もう1頭も「ジロ」との発声に反応したことから、この兄弟が生存していたことが確認されたのである。
wikipediaより
製作:kudopapa@副長
inserted by FC2 system