日本海軍 雷型駆逐艦 漣
日本海軍 雷型駆逐艦 漣(サザナミ)

明治26年(1893年)、英海軍は「Torpedo Boat Destroyer」と称す水雷艇を駆逐する高速艦を開発した。
明治29年(1896年)、対ロシア軍備拡張の努力していた日本海軍は早速イギリスに雷型・東雲型各6隻を発注する。
雷型駆逐艦「漣」は、イギリスのヤ−ロ−造船所に発注された6隻の4番艦で、明治32年(1899年)8月末に竣工。
計画当初は分解輸送し内地で組立てる案もあったが、イギリスより回航させ洋上使用に耐える事が実証される。

明治33年3月末に横須賀に回航され整備を受ける。
竣工時には駆逐艇と呼ばれていたが、同年6月末に軍艦籍の駆逐艦に類別される。

排水量345t 全長67.2m 全幅6.3m 石炭専焼の2軸推進 出力6000馬力 速力31ノット
兵装8p単装砲 1基(後2基) 57mm単装砲5基(後4基) 45p単装魚雷発射管2基

明治37年2月〜38年9月の日露戦争に従軍。明治38年(1905年)5月27・28日の日本海海戦に主力艦隊 第3駆逐隊で参加する。
駆逐隊・水雷艇隊は27日の夜間に残存敵艦隊に肉薄し魚雷攻撃をおこなっている。
「漣」は昨夜の夜戦で本隊と逸れ、乗組員の塚本克熊中尉が私物の高倍率双眼鏡にて2隻のロシアの駆逐艦を捕捉。
追跡は「漣」「陽炎」の2艦と記され追跡・攻撃の結果「べドヴイ」は停船降伏、「グローズヌイ」は逃走する。
「ベドヴイ」には重傷のバルチック艦隊司令官のロジェストヴェンスキー中将他幕僚が乗り組んでいた。

戦後は大正期に入って老朽化の為、掃海艇に改造され雑役船に編入、大正5年(1916年)10月中に廃船となり翌年解体される。

製作・小野浜
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