日本海軍 仮装巡洋艦 西京丸
日本海軍 仮装備巡洋艦 西京丸
西京丸は1885年、郵船創立後最初の新造船としてグラスゴーのロンドン&グラスゴー造船所で建造され、上海航路に就航。
後ろ方向にやや傾斜したマストと煙突を持ち、船橋楼から船尾にかけては遊歩甲板が設けられ、その下に一等船室やサロンなどが設けられた。

日清戦争・黄海海戦
1894年7月25日の豊島沖海戦で、事実上日清戦争が勃発。
西京丸は開戦後ただちに日本海軍に徴用され、巡洋艦代用に改造、武装が施され、9月2日に佐世保を出撃して、翌3日に長直路の根拠地に到着。
9月6日、軍令部長樺山資紀が幕僚5名を従えて西京丸に乗艦[1]。西京丸は戦況視察の目的を以って連合艦隊付属となり、艦隊とともに9月16日に出撃した。

西京丸是日本建造的商船,1889年下水。原爲日本郵船公司商船。
甲午戰爭前改裝,日本稱其爲“代用巡洋艦”。其實僅是一艘武裝商船。後因日本軍令部長桦山資紀隨聯合艦隊出海觀戰,爲乘坐舒適計,將“西京丸”臨時征用加裝火炮作爲座艦。該船只爲觀察戰況。戰鬥未開始它就被排在日艦戰鬥隊形的非戰鬥側,企圖用其它軍艦的艦體掩護其安全。北洋艦隊魚雷艇福龍號抵近發射3發魚雷,都未擊中西京丸號。
這艘日艦戰鬥力防護力較弱,被形容爲"羁絆手足、老朽遲緩之艦",日方在海戰中根本不依靠它的戰鬥力。
翌17日昼ごろ、連合艦隊は黄海海上、海洋島近海で清国北洋艦隊を発見。黄海海戦である。艦隊発見と同時に、連合艦隊司令長官伊東祐亨は、西京丸と赤城に対して戦闘を避けるよう信号を出した。
しかし、信号に従って戦闘を避けたつもりだったのが、戦闘自体が激しくなるにつれ、いつしか敵前孤立の形となった。

この時までに上甲板に一発被弾し船室を貫通したが、幸い戦死者は出なかった。
最初の危機が去って間もなく、今度は北洋艦隊旗艦定遠と鎮遠、来遠の3隻が西京丸に対して攻撃を仕掛けた。
定遠か鎮遠のうちのどちらかが発射した30.5センチ砲弾が命中し、サロンと機関室、スチームパイプを破壊。
スチームパイプの破壊で一時操舵が困難となった。
福龍は西京丸が反撃できない好機を逃さず、二度目の攻撃でわずか40メートルにまで接近し、魚雷を発射。

しかし、距離が近すぎたのか魚雷は西京丸の下を通過して反対側に去っていった。
西京丸は被弾12発を数えた。しかし、戦死者はわずか1名であった。
西京丸は「舵故障」の信号を掲げて戦場を離脱した。
戦争終結後、西京丸は徴用を解除された。

その後の西京丸
上海航路に復帰した西京丸は大いにモテた。黄海海戦での奮戦ぶりが大々的に報じられ、わざわざ西京丸の便を待つ乗客が出るほどの人気であった。
1904年からの日露戦争では同型船神戸丸(2,901トン)とともに病院船として活動した。第一次世界大戦前後は青島航路に転じ、1921年5月7日に栗林商船に売却され、上海・大連航路に就航した。
その後は老朽化により引退し、1927年夏に大阪尻無川で解体された。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
製作・伊藤司令
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