清国海軍 北洋水師 防護巡洋艦 済遠
防護巡洋艦 済遠
1885年 - ドイツ、フルカン造船所にて竣工。
清国海軍がドイツのフルカン社に発注して就役させた防護巡洋艦で同型艦はない。
(北洋艦隊所属時)
クルップ 21cm(38口径)連装砲1基 クルップ 15cm(35口径)単装砲1基
47mm単装砲2基 3.7cm単装砲9基 381mm水上魚雷発射管4基
装甲 甲板:75〜102mm(主甲板)
主砲バーベット部:50mm(最厚部)
司令塔:50mm
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豊島沖海戦
1894年(明治27年)7月25日、日本艦隊と清国艦隊が朝鮮半島西岸沖の豊島沖で戦った海戦に巡洋艦 「広乙」と共に参加。
豊島沖海戦は陸兵を乗せてやってくる予定の清国商船「高陞号」の護衛として、朝鮮半島西岸沖の豊島(現 京畿道安山市檀園区内)沖で日本海軍の日本海軍第1遊撃隊の「吉野」「秋津洲」、「浪速」の3艦と遭遇したことによって起こった海戦。
戦闘は互いに3000mに接近した時「済遠」が、21cm砲を発砲して始まった。
互いに砲撃を交わした後の午前7時50分、非常に霧が濃く視界が悪い中、優勢な日本海軍の応戦の前に清国艦隊は逃亡を開始した。「秋津洲」は「広乙」を、「吉野」と「浪速」は大きいほうの「済遠」を追った。「広乙」は追い詰められて擱座した。
済遠はその後吉野の追撃を受けながらも戦闘を続け、吉野の喫水を越えた浅瀬に侵入して難を逃れた。
その後同海域で後から到着した清国輸送船「高陞号」を東郷平八郎大佐の指揮する「浪速」が清国兵が停船命令に従わないためこれを撃沈した。
黄海海戦
黄海海戦は1894年(明治27年)9月17日に日本海軍連合艦隊と清国海軍北洋艦隊の間で戦われた海戦。鴨緑江海戦とも呼ばれる。
清国海軍は戦艦「定遠」「鎮遠」を主軸とした12隻の陣容で、対する日本海軍は「松島」「橋立」「厳島」の三景艦と9隻の艦隊で、鴨緑江の河口付近に碇泊している北洋艦隊を発見したことから始まった。
しかしこの戦闘中、済遠と広甲が独自に戦場から無断で離脱し旅順に戻ってしまった。
近世の海戦において唯一の軍艦敵前逃亡事件である。
済遠の艦長「方伯謙」は、戦線離脱の嫌疑でこの翌日、銃殺に処された。
この離脱事件の真相には諸説があるが、元々艦長の方伯謙が艦隊決戦を好まず通商破壊作戦で戦うことを主張していたことや、清国海軍が軍閥による連合体であったため、方伯謙が清国海軍の丁汝昌提督と対等の立場で指揮権が有ると考えていたとの見方もある。
その後「済遠」は 威海衛の戦い後、威海衛で日本軍に降伏し鹵獲され、日本海軍の巡洋艦として艦籍に入る。
1904年2月8日、日露戦争が開始され、同年11月30日、旅順港外にて二〇三高地砲撃中、午後2時24分に触雷沈没した。
製作・龍旗艦隊
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