ロシア帝国海軍 戦艦 オスリャービャ
ロシア帝国海軍 戦艦 オスリャービャ
オスリャービャは、ペレスヴェート級戦艦の2番艦で、サンクトペテルブルクの新海軍工廠で起工、1898年10月27日に進水し、1901年8月に竣工した。
艦種 ペレスヴェート級 艦種 艦隊装甲艦 排水量 計画排水量 12674 t 満載排水量 14789 t
全長 133.4 m 全幅 21.8 m 喫水 7.9 m 機関 3段膨張垂直蒸気機関 3 基 ベルヴィル式水管ボイラー 30 缶
出力 14500 馬力 推進 3 軸 速力 18 kn 航続距離 5610 nm
乗員 士官 28 名 水兵 725 名
武装 40口径254 mm連装砲 2 基 45口径152 mm単装砲 11 門 50口径75 mm単装砲 20 門
43口径47 mm単装砲 20 門 37 mm単装砲 8 門 63.5 mm単装上陸砲 2 門 381 mm水上魚雷発射管 3 門 381 mm水中魚雷発射管 2 門 装甲 舷側 102 - 229 mm 甲板 51 - 127 mm
オスリャービャはヴラジーミル・ベール大佐の指揮の下第2太平洋艦隊(日本側での通称バルチック艦隊)に編入され、第2装甲艦隊司令官ドミートリイ・フォン・フェリケルザム海軍少将が乗艦する旗艦となった。オスリャービャは、艦隊の中での砲術部門における優秀艦に選ばれた。オスリャービャは、第2装甲艦隊所属となった戦艦シソイ・ヴェリキィー、ナヴァリン、装甲巡洋艦アドミラール・ナヒーモフを率い、戦域を目指した。
1905年5月27日、対馬海峡においてオスリャービャはバルチック艦隊第2装甲艦隊の旗艦として三列縦隊のうちの左翼先頭にいた。海戦の始まりにおいてオスリャービャは日本側の戦艦と装甲巡洋艦計12隻のうちの7隻による集中砲火を一身に浴びることとなった。これは戦隊の先頭艦を集中攻撃する日本側の方針(丁字戦法)や、三本煙突で識別しやすかったことが原因とされている。
このときは中央の列にいた第1装甲艦隊の最後尾にあり、ほぼ並走していた戦艦オリョールの真後ろにつくべく速度を落としていたため(機関を停止していたとする記録もある)、多数の直撃弾を浴びてしまった。まもなく艦首の火砲はすべて使用不能となり、前部艦橋は炎に包まれた。艦首は傾斜を増し、それは前を走るオリョールの艦尾の12インチ砲塔からオスリャービャの艦尾に至るまでの全甲板が見渡せたほどであった。
14時45分には、日本軍艦の集中砲火により艦首装甲砲座部分に大きな弾孔を穿たれ、オスリャービャは戦列から落伍した。艦首および左舷は大きく傾斜し、左舷は落伍ののち10分で水没した。15時10分には日本軍がオスリャービャの沈没を確認し、オスリャービャは日本海海戦で戦没した最初の戦艦となった。
500名近くが戦死し、その中には艦橋を退くことを拒んだベール艦長も含まれた。
沈没に際し第1水雷艇隊の駆逐艦が救助に駆けつけ、250名がブイヌイに、10名ずつがブラーヴィイとブィーストルイに救助された。その後、ブラーヴイはウラジオストクへ帰り着くことができたが、他の2 隻は失われた。
ブーイヌイは乗員の手によって自沈、ブィーストルイは防護巡洋艦スヴェトラーナとともに戦線を離脱、日本の防護巡洋艦新高の追撃を交わし、朝鮮半島沿岸で乗員の手によって爆破された。
製作・北國海軍工廠
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