ロシア帝国海軍 戦艦 ナヴァリン
ナヴァリンは、ロシア帝国がバルト艦隊向けに建造した前弩級戦艦である。

起工 1889年7月1日 フランコ=ロシア工場 進水 1891年9月8日
竣工 1895年6月19日 所属 ロシア帝国海軍バルト艦隊  
沈没 1905年5月27日
艦種 装甲艦・艦隊装甲艦 艦級 ナヴァリン級
排水量 10206 t 全長 105.9 m 全幅 20.4 m 喫水 8.4 m
機関 3段膨張型レシプロ機関 2 基  出力 9194 馬力  石炭専焼円缶 12 基 プロペラシャフト 2 軸  推進用スクリュープロペラ 2 基 速力 15.85 ノット 航続距離 3050 海里
乗員 士官 26 名 水兵 596 名
武装 35口径30.5 mm連装砲 2 基 35口径15.2 mm単装砲 8 門 43口径47 mm単装砲 18 門 23口径37 mm単装砲 12 門 20口径 63.5 mm陸戦砲 2 門 381 mm水上魚雷発射管 単装6 門
本艦は中央楼型船体で、艦首水面下に衝角を持ち、乾舷の低い艦首甲板から前部甲板上に「1877年型 30.5cm(35口径)砲」を連装砲塔に収め、1基を配置した。
その背後から上部構造が始まり、司令塔を下部に組み込んだ箱形艦橋は上部構造物と一体化していた。艦上構造物の後ろには簡素な単脚式のマストが1本立つ。その背後に4本煙突が並列2本ずつが前後に配置されていた。煙突の周囲は艦載艇置き場となっており、上部構造物の上にあるために波浪の影響を受けにくい利点があった。上部構造部の側面には砲郭(ケースメイト)配置で15.2cm単装砲が片舷に等間隔で4基が配置されていた。煙突の背後に中部に装甲で覆われた見張り所が設けられたミリタリー・マストが1本立ち、その後部で上部構造物は終わり、後部甲板上には後ろ向きに連装砲塔1基が配置された。
ナヴァリンは1904〜1905年に近代化改装を受け、無線機が搭載されたのに合わせてアンテナ線の長さを確保するために簡素な前部マストは延長され前檣と呼ぶにふさわしい高さになった。艦橋には基線長1.37mの測距儀と望遠鏡型の照準装置が設けられた。
1889年7月1日、サンクトペテルブルクのフランコ=ロシア工場にて起工した。1891年9月8日には進水し、1895年6月19日には竣工した。その後は、軍事演習に参加したり、地中海や極東、中国、日本などに派遣されたりした。
1900年5月陸戦部隊を乗せて大邱へ移動し、義和団の乱鎮圧のための国際部隊に加わった。中国戦役ののち、ナヴァリンは太平洋艦隊に編入されて1901年12月12日まで極東に留まったが、新しい艦隊装甲艦レトヴィザンとポベーダが到着すると、それと交代する形でナヴァリンはG・P・チュフニーン海軍少将の艦隊に加わって極東を去った。
1902年中旬には、修理工事が行われた。工事は、日露戦争の開戦までは特に急ぐこともなく続けられたが、1904年3月になると急遽その速度を速められた。そして、ナヴァリンは第2太平洋艦隊に編入され、艦隊装甲艦オスリャービャ、シソイ・ヴェリーキー、装甲巡洋艦アドミラール・ナヒーモフとともに第2戦艦隊に組み込まれた。
この頃、艦の最大の弱点とされたのが、黒色火薬を用いる旧式化した火砲であった。しかし、工期はまだ残っていたにも拘らず、開戦によって新しい砲の装備が不可能であることが1904年夏までに明らかとなった。クロンシュタット蒸気船工場の生産力不足と、連合艦隊派遣の遅れへの懸念から、連合艦隊準備の責任者であったA・A・ビリリョーフ海軍中将はできるだけ速やかに海軍省へ工事の終了を報告することを望んだ。結果、1904年6月初めにはナヴァリンは「工事完了」となり、大クロンシュタット沖合い停泊地に出て連合艦隊の出港する8月29日までそこに停泊した。
1905年5月27日の日本海海戦では、日本海軍の艦船はロシアの新しい主力艦に火力を集中し、古い艦はあまり相手にしなかったにも拘らず、ナヴァリンは重度の損傷を負った。船体と機関に損傷を負ったナヴァリンは次第に速力を落とし、他艦から置き去りにされ、21時05分、鈴木貫太郎司令率いる日本の第4駆逐隊の駆逐艦からの雷撃がナヴァリンに止めを刺した。
救助された生存者は3人のみであった。

出典:Wikipedia
製作・国親父座郎
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