日本海軍 連合艦隊 戦艦三笠
三笠は明治31年、仮称「第4甲鉄戦艦」としてイギリス、ヴィッカーズ社バロー・イン・ファーネス造船所に発注され、明治35年3月に竣工し、5月に横須賀に回航され7月に常備艦隊に編入されました。 
主砲の40口径12インチ(30.5センチ)砲は当時世界一流と言われたイギリス・アームストロング社が開発し、同時期に竣工したイギリス戦艦「フォーミダブル」級とほぼ同一です。
1905年5月27日、三笠を旗艦とする日本海軍連合艦隊は、ロシア帝国リバウ港から遠路大航海をやってきたロシア海軍バルチック艦隊を対馬沖で迎え撃ち、これを完膚なきまでに打ち破りました。
これは近代海軍史上初の大海戦で、そのワンサイドゲームは当時の先進国の海軍を驚嘆せしむるものでありました。
日露戦争終結直後の1905年(明治38年)9月11日に、戦艦三笠は佐世保港内で後部弾薬庫の爆発事故のため沈没。
この事故では339名の死者を出しました。
弾薬庫前で、当時水兵間で流行していた「信号用アルコールに火をつけた後、吹き消して臭いを飛ばして飲む」悪戯の最中に、誤って火のついた洗面器を引っくり返したのが原因とする説や下瀬火薬の変質が原因という説もあります。
この爆発沈没事故は秋山真之が宗教研究に没頭する一因ともなったとされています。
1906年(明治39年)8月8日浮揚、佐世保工廠で修理され1908年(明治41年)4月24日第1艦隊旗艦として現役に戻りました。
日露戦争後の戦艦三笠は1914年(大正3年)8月23日、日本が第一次世界大戦に参戦すると、戦争初期に三笠は日本海などで警備活動に従事。
その後、1918年(大正7年)から1921年(大正10年)の間、大戦中に誕生した社会主義国ソ連を東から牽制するシベリア出兵支援に参加。
その後戦艦三笠はワシントン軍縮条約によって廃艦が決定され、1923年(大正12年)9月1日には関東大震災により岸壁に衝突、浸水し、9月20日に帝国海軍から除籍されました。
軍縮条約により廃艦後は解体される予定だったところ、国民から愛された三笠に対する保存運動が勃興し、現役に復帰できない状態にすることを条件に保存されることが特別に認められ、1925年(大正14年)1月に記念艦として横須賀に保存することが閣議決定されました。
同年6月18日に保存のための工事が開始され、舳先を皇居に向け固定されることになる。
11月10日に工事は完了し、12日に保存式が行われた。
第二次大戦後ソヴィエト連邦からの強硬な撤去要求や戦後の混乱による荒廃が有りましたが、歴史の生き証人として現在まで保存されています。
前弩級戦艦としては世界唯一の貴重な保存艦です。

説明文参考 Wikepediaより
製作・国親父座郎
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