日本海軍 巡洋艦 松島
日本海軍 巡洋艦 松島
日本海軍 巡洋艦 松島
松島(まつしま)は日清戦争及び日露戦争で活躍した旧日本海軍の軍艦である。軍艦種別は巡洋艦(建造時は「大艦」)。
防護巡洋艦、二等巡洋艦に類別された。
清国が保有していた戦艦「鎮遠」と「定遠」の2隻に対抗する軍艦として建造された。
松島型(三景艦)のネームシップ。日清戦争時の連合艦隊旗艦である。同型艦は厳島、橋立。

三艦の特徴は、鎮遠・定遠の主砲口径を上回る32cm(38口径)単装砲であり、松島には後部甲板、他2隻には前部甲板に据え付けられた。そのため、同型といえども松島の艦形は他2隻とだいぶ違って見える。
しかし、4000トンクラスの船体に無理やりこれだけの巨砲を積んだ代償は大きく、1894年9月17日の黄海海戦において清国北洋艦隊と対決した際、松島から発射した32cm砲弾はたった4発、他の三景艦も、厳島が5発、橋立が4発で、命中弾はなかったとする説もあるが、捕獲後の鎮遠の検分によれば32cm砲弾の直撃破孔が1つあったとされる。

むしろ、艦隊行動の高速機動性と12cm砲以下の速射砲による戦果が大きく、以後の日本海軍のみならず、世界各国の海軍に大きな教訓を与えた。
黄海海戦では、松島の左舷4番12cm砲郭に鎮遠の30.5cm砲弾を受け、集積の装薬が誘爆、28名が戦死し、松島は大破した。
むしろ、艦隊行動の高速機動性と12cm砲以下の速射砲による戦果が大きく、以後の日本海軍のみならず、世界各国の海軍に大きな教訓を与えた。

日露戦争の日本海海戦では3艦隊第5戦隊に僚艦厳島、橋立と共に参加。
また5戦隊には、日清戦争で戦闘、捕獲した清国海軍二等戦艦「鎮遠」も行動を共にしている。
明治41年(1908年)、海軍兵学校を第35期で卒業した少尉候補生を乗せた遠洋航海の途中、寄港した台湾・馬公で爆沈した。
殉職者は乗組員370名中207名にのぼった。慰霊碑が馬公、殉難者之碑が佐世保市内にある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
排水量 基準:4,217トン 全長 89.9m 全幅 15.6m 吃水 6.4m
最大速力 16.0ノット 兵員 360名
兵装 32cm砲1門 12cm速射砲12門 47mm砲6門 37mm5連装機砲2基 35.6cm水上魚雷発射管4門

製作・シュガー長官
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