ドイツ帝国海軍 巡洋戦艦 ゲーベン
(SMS Goeben)
モルトケ級の2番艦で、竣工間もなく地中海に派遣され、巡洋艦ブレスラウと共にドイツ地中海艦隊を編成しています。
第一次大戦の開戦時、地中海に孤立した本艦は英仏に捕捉されるのも時間の問題と思われていました。
しかし、英仏艦隊の包囲と追跡を振り切った本艦は当時中立国だったオスマン帝国に逃げ込み、そのまま同国に譲渡されます。
このことがきっかけとなってオスマン帝国は同盟国側として参戦することになり、本艦は世界の趨勢を変えた軍艦として有名です。
第一次世界大戦中はオスマン帝国海軍の主力艦としてロシア帝国港湾への艦砲射撃を繰り返したり、1914年11月5日に生起したサールィチ岬の海戦など黒海艦隊主力との戦闘を行った。1923年にトルコ共和国が成立すると、それ以降はトルコ海軍に在籍し第一次近代化改装を経てソ連海軍の弩級戦艦と互角に戦える能力を得た。その後、1941年の第二次近代化改装を経て第二次世界大戦後まで運用された。

本艦はブローム・ウント・フォス社によってハンブルク造船所で建造された。ゲーベンとは、普仏戦争で活躍したアウグスト・カール・フォン・ゲーベン(de:August Karl von Goeben)にちなんで命名されたものである。本艦は、ドイツ帝国の海外侵食に押される形で新編成された地中海艦隊の旗艦として配備され、同じく新鋭のマクデブルク級軽巡洋艦ブレスラウを伴い1912年11月に出航し、道中を完熟訓練の場として地中海に到着した。地中海に配備後は「お披露目」として各地を周り、ギリシャ・ブルガリア・イタリア・エジプトを歴訪、1914年5月にはイスタンブルを訪れた。
同年7月28日にオーストリア=ハンガリー帝国とセルビアが戦争状態に入ると、本艦はドイツ帝国の参戦に備えてアルジェリア沖へ向かった。8月3日のフランスへの宣戦後に、2日に秘密裏に結ばれたドイツとオスマン帝国の同盟によってイスタンブルへの回航を命じられた。
ゲーベンは軽巡洋艦ブレスラウと共にアルジェリア沿岸を砲撃し、フランス陸軍の輸送を妨げようと試みた。砲撃自体は成功したものの、肝心の陸軍はまだ移動前であったために被害は限定的なものであった。むしろ、この行為は追っ手に自らの存在を証明する何よりの証拠となってしまった。これ以降、ドイツ地中海艦隊は「逃げの一手」を打ち地中海を逃げ回った。この頃、イギリス地中海艦隊は巡洋戦艦3隻・装甲巡洋艦4隻という強力な火力を持ち、高速軽巡洋艦4隻を擁する有力な戦力を持っていたのだが、ドイツ地中海艦隊はイギリス艦隊の追跡をかわした。
本艦隊はダーダネルス海峡へ到達、8月16日にイスタンブルに入りオスマン帝国海軍の巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリムとなった。一方、ブレスラウはミディッリと改名されて売却された。この時、乗組員はそのままオスマン海軍に移り、引き続きドイツ人将兵の手によって運用された。
1914年10月29日、オスマン海軍は黒海沿岸のロシア領各地を攻撃した。ヤウズ・スルタン・セリムは駆逐艦サムスンとタショズを伴ってセヴァストポリを砲撃を実施したが、砲台の反撃で被弾し退避した。帰路、ロシアの機雷敷設艦プルートを撃沈し駆逐艦レイテナーント・プーシチンを損傷させた。また、汽船Idaを拿捕した。オスマン帝国海軍による攻撃はロシアの宣戦布告を招き、第一次世界大戦にオスマン帝国も参戦することとなった。
11月18日、本艦はサールィチ岬の海戦にて30.5cm砲弾を受けて小破し死者13名、負傷者3名を出した。12月、ヤウズ・スルタン・セリムは輸送船の護衛とバトゥミ砲撃を行った。それからの帰路、12月26日にボスポラス海峡の入り口付近でロシア艦艇の敷設した2発の機雷を両舷に一個ずつ触雷し、合わせて2,000トンの浸水が発生。修理中に度々出撃を重ねたために完了までに数ヶ月の修理を要することとなった。
1915年4月に復帰し商船2隻を撃沈するが、ボスポラス海峡口におけるロシア主力艦隊との戦闘で被弾損傷、さらに同年末には黒海艦隊により強力なインペラトリッツァ・マリーヤ級戦艦2隻が就役し優位が揺らいだ。1916年1月8日、ヤウズ・スルタン・セリムはケフケン島沖にてロシア弩級戦艦インペラトリーツァ・エカチェリーナ・ヴェリーカヤと交戦した。この戦闘では双方とも命中弾はなかったが、ロシアの弩級戦艦の優位は明白となった。2月、ヤウズ・スルタン・セリムはトラブゾンへ兵員や兵器等を輸送した。7月4日、ヤウズ・スルタン・セリムはトゥアプセを砲撃し、2隻の船を沈めた。
1917年12月、ヤウズ・スルタン・セリムとミディッリによる地中海への出撃が決定された。この作戦の参加艦艇は2隻のほか水雷艇4隻と潜水艦1隻であった。作戦に先立ち参加艦艇はまずゾングルダクへ行き石炭を補給。
1918年1月18日に演習名目でマルマラ海への集結命令がだされ、1月19日に各艦は指定場所へと向かった。同日16時にはダーダネルス海峡へ向け出発し、20日6時前には海峡から出た[2]。水雷艇は低速などを理由に海峡入り口でヤウズ・スルタン・セリムおよびミディッリと分離された。6時10分にヤウズ・スルタン・セリム触雷したが、ヤウズ・スルタン・セリムとミディッリはインブロス島へむかいそこで敵艦船などを攻撃した。ヤウズ・スルタン・セリムはまず商船や通信施設を攻撃し、それから先行していたミディッリとともにイギリスのモニターM28とラグランを撃沈した。それから2隻は新たな目標を求めてリムノス島ムドロス湾へむかったが、その途中でミディッリが触雷し、その救援活動中にヤウズ・スルタン・セリムも触雷。ミディッリはさらに触雷し、敵艦隊の来襲の恐れなどがあることからヤウズ・スルタン・セリムその場を離れて帰路についた。ミディッリはこの後にも触雷し、沈没した。9時48分にヤウズ・スルタン・セリムも3度目の触雷をしたが、無事にダーダネルス海峡入り口に到着した。だが、11時32分に海峡内で座礁し、装甲艦トゥルグート・レイスなどの助けを借りて1月26日に離礁に成功するまでの間爆撃受け、300以上投下された爆弾のうち2発が命中した。
4月末には、防護巡洋艦ハミディイェとともにセヴァストーポリを砲撃し、終戦まで同港に進駐した。
第一次世界大戦が終結し、オスマン帝国が倒れてトルコ共和国が成立すると、旧オスマン帝国海軍の艦船はトルコ海軍の管轄下に入った。

1926年から1930年にかけてフランスのサン=ナゼール・ペノエ造船所によってゴルジュク海軍工廠にて修理と平行して第一次近代化改装が行われ、石炭専焼主ボイラーを石炭・重油混焼缶へ改造する事により出力・速力の改善がなされた。また、射撃指揮装置の更新、更に大戦の戦訓により水中魚雷発射管の撤去による水雷防御の向上がはかられ、8.8cm高角砲や40mm機関砲を装備して対空攻撃能力向上がなされた。
改装後にトルコ海軍の巡洋戦艦ヤウズ・セリム(Yavuz Selim)として再就役し、さらに1936年にヤウズ(Yavuz)と改名した。1938年、ケマル・アタテュルクの遺体をイスタンブルからイズミットまで運んだことで、トルコではよく知られている。
ヤウズに大きな改装がなされることはなかったが、1941年の第二次近代化改装で対空射撃の障害となっていた後檣が撤去され、そのままの姿で第二次世界大戦後も在籍した。
本艦は1948年には、軍事的というよりも既に象徴的な存在となっていたが、1952年にはNATOの艦番号370を付けられた。1954年に退役し予備艦となった後の1963年に、西ドイツ政府より購入の申し入れがあったがトルコ政府はこれを拒否した。1966年になると今度はトルコ政府より西ドイツへ売却が持ちかけられたが、当時の西ドイツの政治状況の変化により旧時代の記念艦に過ぎないヤウズが買収されることはなかった。結局、1971年に解体業者に売却され、1973年6月7日に港を離れた後、同年7月から1976年2月にかけ、両大戦を経験した最後の巡洋戦艦は解体された。
製作:衛
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