日本海軍 連合艦隊 装甲巡洋艦 浅間
装甲巡洋艦 浅間
装甲巡洋艦 浅間は、大日本帝国海軍が日露戦争前にイギリスから購入した最初の装甲巡洋艦。
本艦は風雲急をつげる日露の情勢で、アームストロング社で建造中であった輸出用一等巡洋艦(ストックボート)を急遽購入したものである。
購入時には船体の建造が大分進んでいたが、武装を日本式に変更することができた。
「浅間」は明治33年から41年まで連続して観艦式のお召し艦に選ばれ、これは日本海軍では最高記録である。
排水量 基準:9,700トン 全長 134.72m、水線長:124.4m 全幅 20.45m 吃水 7.4m
最大速力 21.5ノット 乗員 661名 
兵装:20.3cm(45口径)連装砲2基 15cm(40口径)単装砲14基 8cm(40口径)単装砲12基 47mm単装砲8基 45.7cm水上魚雷発射管単装1基 45.7cm水中魚雷発射管単装4基
仁川沖海戦
1904年2月6日、日本はロシア側へ国交断交を通知して開戦準備に入った。
まず第一手として帝国陸軍先遣隊一個旅団を仁川に上陸させ、合わせて仁川港に停泊中のロシア太平洋艦隊所属の艦船を撃破することになった。
上陸支援と艦船の撃破の任には防護巡洋艦4隻からなる日本海軍第二艦隊第四戦隊とそれに臨時編入される装甲巡洋艦「浅間」、水雷艇8隻がついた。
仁川港にはロシアの防護巡洋艦「ヴァリャーグ」と航洋砲艦「コレーエツ」、日本の防護巡洋艦「千代田」のほかヨーロッパ各国の軍艦が停泊していた。
「ヴァリャーグ」と「コレーエツ」とでは「浅間」にとても対抗できるものではなかったが、「ヴァリャーグ」艦長フセヴォロド・ルードネフは脱出して旅順に向かうことを決意、正午に出港した。日本艦隊は港口で待ち構えており、その砲撃で「ヴァリャーグ」がまもなく大破した。
結局ロシア側は仁川港に引き返し、乗組員を上陸させたのちに鹵獲を避けるため、両艦とも自爆させようとしたが「ヴァリャーグ」を自爆させると他の艦船に被害が及ぶため自沈させるのみの処置をとった。
日本海海戦では日本海海戦では連合艦隊主力(第一、第二戦隊)の殿艦として参戦したが、一斉回頭後にロシア艦隊からの砲撃で舵機を損傷し、戦列から離れる被害を負った。
第1次世界大戦ではドイツ領青島攻略作戦に従事。
その後浅間は大正から昭和にかけて練習艦隊を編成、少尉候補生の遠洋航海に従事し、1942年練習特務艦となった後、1945年8月に大湊で米軍機の攻撃を受け大破着底。
同年11月に除籍となった。

『ウィキペディア(Wikipedia)』参照
製作・kudopapa@副長
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