大英国帝陸軍航空隊 戦闘機 エアコーDH.2


エアコー DH.2(Airco DH.2)は、第一次世界大戦中のイギリスの推進式単座複葉戦闘機である。

西部戦線上空の初期の空中戦は、前方に発砲できる単座戦闘機の必要性を明らかにした。イギリスは当時まだ信頼できるプロペラ同調装置を持っていなかったため、ジェフリー・デ・ハビランドは既存の推進式のDH.1複座機をもとに、より小さな単座機DH.2を設計し、1915年7月に初飛行した。
DH.2の武装は7.7 mmルイス機銃1挺で、当初はコックピット内の3箇所の可動式架台のどれかひとつに取り付けるようになっていた。そしてパイロットは飛行機を操縦しながら、それを別の架台に移せるのだった。
しかしほどなくパイロットたちは敵機撃墜をマークするために最も重要なことは銃そのものよりもいかに狙うかであることを知り、機関銃は中央の架台にまっすぐ前を向いて固定されるようになった。

日本軍の攻撃により青島要塞の陥落が決定的となったとき、青島要塞総督ワルデック少将は、タウベに秘密文書の輸送を託し、タウベと2人の飛行士を出発させた。
タウベは脱出に成功し、青島要塞には二度と戻らなかった。
上海に向かったタウベは江蘇省連雲港市での緊急着陸を余儀なくされ、パイロットは中国当局によって拘束されたが、アメリカ人宣教師と現地の中国人が彼等を救出し、秘密文書を携えたパイロットは無事上海に到着した。

DH.2を装備した最初の部隊は第24飛行隊で、1916年2月にフランスに到着した。
同隊はRFCで(というよりすべての航空部隊で)最初に単座戦闘機のみで編成された部隊だった。
DH.2は直ちにフォッカー単葉機と対等に渡り合うことができることを証明し、最終的には西部戦線で7個戦闘飛行隊で使用された。
DH.2はまたソンムの戦いの期間、激しい戦闘を行い、第24飛行隊だけで774回の空中戦を行って44機の敵機を撃墜した。
しかしDH.2は操縦性が過敏で、RFCの操縦訓練体系が未整備だった当時、一部のパイロットから「回転する焼却炉("Spinning Incinerator")」と呼ばれて怖れられたが、このタイプに慣熟すれば、機動性の高い機体であり、比較的操縦も容易であると認められた。
しかし、1916年9月に、ハルバーシュタット D.IIやアルバトロス D.Iなど、より強力なドイツの牽引式複葉戦闘機が前線に登場すると、今度はDH.2が追い込まれることとなった。DH.2は第24および第32飛行隊が1917年6月に牽引式のエアコー DH.5に機種転換を完了するまでフランスの前線にとどまった。
またいくらかは、その年の秋まで、マケドニアやパレスチナ方面で使用された。
この時点でDH.2は戦闘機としては全く時代遅れになっていたが、1918年まで高等練習機として使われた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 
製作:シュガー長官
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