ロシア帝国海軍 戦艦 ツェザレヴィッチ
ロシア帝国海軍 戦艦 ツェザレヴィッチ
ロシア戦艦ツェザレヴィッチ(1/700 コンブリック)
 本艦はロシア海軍の極東戦力増強のために、1899年〜1903年にフランスで建造された戦艦です。
 当時のロシアには自国で主力艦を建造する能力がありましたが、国内の造船所は全て他艦で埋まっていたことから、技術導入も兼ねて国際コンペティションによって建造元を募りました。
 その結果、フランスのラ・セーヌ造船所で建造されたのが本艦であり、同様の経緯でアメリカのクランプ造船所で建造されたのがレトヴィザンです。
 このような経緯で建造されたこともあって、これらの艦には同型艦はありません。
 前述のように本艦は最初から極東配備を想定して建造されており、造艦設備の貧弱な極東のドックに入渠可能であることと、常備状態でスエズ運河を通行可能であることが必須条件であったため、当時の戦艦としてはコンパクトにまとめられています。
また、国際コンペティションで設計されたせいかお国柄が顕著に表れており、フランス艦の三種の神器「タンブルフォーム」「砲塔化された副砲」「太いミリタリーマスト」のうち「太いミリタリーマスト」以外は本艦にも採用されています。
 トップヘビー化を嫌ったロシア側から特に「太いミリタリーマスト」は採用しないように要望があったと言われていますが、そのかわり一際大きなファイティングトップを装備しています。
 高い水準で攻防走のバランスがとれた優秀艦で、ロシア側の評価も非常に高く、後に建造されたボロディノ級のモデルシップとなっています。
本艦は旅順艦隊旗艦ペトロパブロフスクが名将マカロフ提督と共に沈んだ後、指令長官代理となったウィトゲフト提督の将旗を掲げ、旅順艦隊旗艦となりました。
 黄海海戦では積極的な戦闘を避けウラジオストクを目指すことを最優先にした結果、一時は日本側の追撃を振り切るかに見えましたが、艦橋に直撃した「運命の一弾」によりウィトゲフト提督は戦死し舵機も損傷、続く一弾で艦長が戦死し、他艦に指揮の移譲をする間もなく迷走を始めたため、艦隊は大混乱になります。
 その後の艦隊は戦艦ペレスヴェートに座上した次席指揮官ウフトムスキー少将により何とか立ち直りますが、もはやウラジオストクへの脱出は望むべくもなく、旅順に引き返す結果となったのです。
また、ツェザレヴィチは損傷激しく、旅順への帰還も困難であったため、中立国ドイツの租借地である青島膠州湾に逃げ込み、終戦まで拘留されることになりました。
 本艦は戦後にロシアに返還され、日露戦争で弱体化したバルト海艦隊をボロディノ級の生き残りである戦艦スラヴァと共に支え続け、やげて第一次世界大戦を迎えることになりますが、それはまた別の話となります。
製作・衛
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