ロシア帝国海軍 戦艦 シソイ・ヴェリキィー
ロシア帝国海軍 戦艦 シソイ・ヴェリキィー
バルチック艦隊第二戦艦戦隊
シソイ・ヴェリキィーСисой Великийは、ロシア海軍がバルト海向けに建造した海防戦艦。日本海海戦の翌日、対馬韓崎の東方海上で沈没。

発注 サンクトペテルブルク・アドミラルティ工廠 起工 1892年5月 進水 1894年6月1日
就役 1896年8月 1905年5月28日戦没
排水量 常備:10,400トン 全長 107.2m 105.16m(水線長) 全幅 20.7m 吃水 7.7m(常備)8.8m(満載) 機関 ベルヴィール式石炭専焼円缶8基+直立型3段膨張式3気筒レシプロ機関2基2軸推進 最大出力 8,640hp 最大速力 15.6ノット 航続距離 10ノット/4,400海里 乗員 582名 兵装 30.5cm(40口径)連装砲2基 15.2cm(45口径)単装速射砲6基 6.5cm(19口径)野砲2基 4.7cm(43口径)単装砲12基 3.7cm(23口径)単装速射砲10基 3.7cm回転式5連装ガトリング砲2基 38.1cm水上魚雷発射管単装6基 機雷50発
基本設計は同年代のイギリス海軍の前弩級戦艦「ロイヤル・サブリン級戦艦」を模倣し、船体形状は酷似している一方で、ロイアル・サブリンが砲塔に囲いのない露砲塔であったのに対し、本艦はフランス式の楕円筒型の完全な砲塔形式にするなど、これまでのロシア海軍の大型艦と異なり装甲艦から前弩級戦艦への変換への過程を独自の工夫が見られる艦である。
船体形状は「トリ・スヴィティテリア」よりも乾舷の高い平甲板型船体となっている。水面下に衝角を持ち、水面から垂直に切り立った艦首から艦首甲板上に30.5cm連装主砲塔が1基、その背後に司令塔を組み込んだ操舵艦橋の左右にオチキス 3.7cm回転式5連装ガトリング砲を1基ずつ計2基を配置し、艦橋の背後にミリタリーマストが立つ。ミリタリーマストとはマストの上部あるいは中段に軽防御の見張り台を配置し、そこに37mm〜47mmクラスの機関砲(速射砲)を配置した物である。これは、水雷艇による奇襲攻撃を迎撃するために、遠くまで見回せる高所に対水雷撃退用の速射砲あるいは機関砲を置いたのが始まりである。形状の違いはあれど、この時代の列強各国の大型艦の多くに見られたマストの形態であった。
本艦の主砲は前級に引き続き国産の「Pattern 1895 30.5cm(40口径)砲」を採用した。その性能は重量331.7kgの主砲弾を最大仰角15度で射距離14,640mまで届かせる事ができる性能であった。本艦において採用された連装砲塔はフランス式の全周囲防御を持つ砲塔で、ロシア海軍の後に建造された戦艦全てのモデルとなった。
日本海海戦では第2戦艦隊(司令長官:フェルケルザム少将)で参加。
海戦初頭、舵機に損傷を受けた第1戦艦隊旗艦クニャージ・スヴォーロフが北に変針し、連合艦隊第1戦隊が「クニャージ・スヴォーロフ」を追って北へ転進したため、ロシア艦隊はインペラートル・アレクサンドル3世を先頭に第1戦隊から逃走を試みたが、第2戦隊上村彦之丞中将が変針したクニャージ・スヴォーロフを舵機の故障と見て取り、第1戦隊の後を追わずそのままロシア艦隊を猛追撃した。
上村の指揮の下、第2戦隊は東郷の第1戦隊とは別行動をとって東南東へ進むバルチック艦隊を追って敵の東側目指して針路をとり、やがて「インペラートル・アレクサンドル3世」の前へ回り込むことに成功した。上村の第2戦隊は「浅間」が舵の故障で欠けていたものの、残りの装甲巡洋艦5隻はほぼ無傷で20ノットの高速航行が可能であった。しかし、備砲は20.3cm砲が最大であり、バルチック艦隊は損傷しながらも30.5cm砲を備える6隻の戦艦を始めとする多数の艦があり、通常なら戦いを挑む状況ではなかった。3,000mに距離を詰めると双方の砲撃戦が始まり、たちまち第2戦艦隊の先頭にあった戦艦「シソイ・ヴェリキー」が猛火に包まれ戦線から離脱した。「クニャージ・スヴォーロフ」に代わってバルチック艦隊を率いていた「インペラートル・アレクサンドル3世」も浸水によって艦が傾き戦線から離脱した。
その後戦線から離脱した「シソイ・ヴェリキー」は夜間に入り第4駆逐隊の魚雷攻撃により22時15分大破、翌朝沈没した。
製作・国親父座郎
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