ドイツ帝国海軍ヘルゴラント級戦艦 オストフリースラント
(SMS Ostfriesland )
オストフリースラントは帝政ドイツ海軍が建造したヘルゴラント級戦艦の二番艦で
ある。
1911年8月にヴィルヘルムスハーウェン海軍工廠で竣工した。
同型艦はヘルゴラント、チューリンゲン、オンデンブルグの三隻である。
艦名はドイツ領東フリージア地方に因んで命名された。

外観こそは同海軍ナッソウ級戦艦のマイナーチェンジ型となったが、攻撃力と 防御力は格段に向上している。
ドイツ海軍がこれまで建造した弩級戦艦は他国より若干小口径の主砲を採用していたが、本級に至ってようやく30.5cm砲を採用し、同時代の他国の戦艦に追いつくものとなった。

しかし、従来のドイツ戦艦の28cm砲は強炸薬により初速を増しており、他国の30.5cm砲に威力で匹敵するという意見がある。
そのため本級は実質的には超弩級戦艦であり、本級の30.5cm砲はやや遅れて登場したイギリスの超弩級戦艦の13.5インチ砲に匹敵するという意見もある。
第一次世界大戦に際しては大洋艦隊にあり、同大戦での最大の海戦となるジュト ランド沖海戦では、エルハルト・シュミット少将が指揮する第1戦艦隊旗艦として同型艦3隻と共に参加した。
 
同海戦ではサー・ジョン・ジェリコー大将の指揮する英国グランド・フリートと交戦するも目立った功績は上げられなかったが、僚艦チューリンゲンが英国戦艦ブラック・プリンス号を撃沈した。

この海戦の帰途オストフリースラントは接雷し損傷、ウィルヘルムスハーフェン海軍工廠にて修理に1ヶ月を要した。

第一次世界大戦の終結後、残存するドイツ艦隊のほとんどは英国領スカパフロー泊地に抑留されたていた。

しかし、オストフリースラントを含むヘルゴラント級の4隻はドイツ国内にあり、スカパ・フローでの大量自沈を免れた。
1920年には賠償艦としてアメリカ合衆国へと引き渡され、航空爆撃実験の標的艦とされた。

説明文参考 Wikepediaより
製作:殺菌消毒
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